2007年度1学期水曜4時限「認識するとはどういうことか?」

                第9回講義(2007年6月27日)                

   

 

■復習

 

(1)internalism  「信念的内在主義(doxaitic internalism)」

これへの批判:H.アルバートの「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」

          「非信念的内在主義(nondoxaitic internalism)」

これへの批判:セラーズの「所与の神話」

(2)externalism  「知識の因果説」(causal theory of knowledge)Goldman

         「反事実的分析」(Dretske

 

■心身問題と<内在主義vs外在主義>論争の関係

以前に認識の外在的基礎付け主義のためには、次の二つの証明が必要だとのべた。

(1)Pという事実からある知覚が因果的に生じていることの証明

  ある脳状態がある知覚と同一であること(同一説)、あるいはある脳状態はある知覚が随伴すること(supervene)(随伴現象説)を証明しなければならない。(心身の二元論はとらず、一元論を採用するとする。)

(2)ある知覚からそれに関する命題知が因果的に生じることの証明

 

ところで、心身問題を考えるときに、クオリアの問題と志向性の問題に大きく分かれることを指摘した。上の(1)はクオリアの問題に関連し、(2)は志向性の問題に関連している。それぞれについて、どのように答えるかに応じて、<内在主義vs外在主義>の論争に影響することになるだろう。

 

以上の議論はなお継続中であり、これ以上の議論は、概説の範囲を超えるので、ここまでとする。

 

           §9 知識の社会性

 

 

■信念の正当化の種類

推論

感覚ないし知覚

記憶

伝聞

 

■証言による信念(testimonial belief

「証言の信頼性は何に基づくか?」

証言者に対する個人的な信頼

  証言者の誠実性を信頼する

  証言者の認識能力を信頼する

証言者に対する彼の社会的権威にもとづく信頼

  証言者の誠実性を信頼する

  証言者の認識能力を信頼する

 

■認識の社会的分業、あるいは認識論的依存のネットワーク

(参照:戸田山和久『知識の哲学』pp.227-229

 

(1)赤メンバーはmということを知っている。

(2)青メンバーはnということを知っている。

(3)緑メンバーは(i)赤メンバーがmということを知っていることと

         (ii)mならばoであるということを

    知っている。

(4)黄メンバーは、(i)青メンバーがnということを知っていることと

          (ii)緑メンバーがoであるということを知っていると

          (iii)nかつoならばpであるということを

    知っている。

(5)桃メンバーは、黄メンバーがpであることを知っていることを知っている。

 

ここで生じていることをまとめると次のようになる。

1、この研究の対象となっている世界では、

(1)m  赤の知

(2)n  青の知

(3)mならばo  緑の知

(4)nかつoならば、p 黄色の知

という四つの命題が成り立っている。

 

・この四つの命題を前提すると論理的にpが導かれるから、これら4つの命題は合わせて、pであることの証拠になる。

・しかし、pを正当化する四つの証拠の全てを直接所有しているメンバーは一人もいない。

・それぞれのメンバーは、その証拠の一部を知っているだけで、残りの証拠を他のメンバーに認識論的に依存している。

 

問題「pを知ったのは誰だろうか?」

 

答え1「黄メンバーと桃メンバーである」

 

答え2「pということの直接証拠の全てのを所有しているのは他でもなく、この研究グループ全体だ。従って、pという知識はグループ内のどの個人でもなくグループ全体にだけ帰属する、というか考え方も出来る。このとき、モモメンバーは、「私はpということを知っている」とはいえなくなる。「私たちは

pということを知っている」といわなくてはならない。

知識の個人主義について

知識を持つのは、個人である。
したがって、例えば、「我々は、pを知っている」という発言は、正確に言うならば、「Aは、pを知っており、Bは、Pを知っており、Cはpを知っており、・・・」というような発言の省略形であると考える。
また、たとえば「グラスゴー警察は、事件はテロリストによるものだと知っている」というのは、警察官の分業による捜査の結果から、事件はテロリストによるものだと判断した人物がおり、彼がそれを所長に報告をして、その結果を所長が、グラスゴー警察を代表して発表したのである。しかし、所長がpと知っており、所長が警察を代表してpを知っていると語るとき、警察が知っているというのは、擬人法に過ぎない。本当に知っているのは、それを代表する個人である。

このような知識の個人主義は、正しいのだろうか。

知識の社会性というものは、このような個人主義と両立するのだろうか。それとも、個人主義を超える形で、知識を捉える必要があるのだろうか。
この問題を、来週考えたい。

問題

(1)もっとも強い個人主義の立場に立って、他者からの伝聞に基づく信念を全て知識から排除したとき、君が知っていると思っている事柄のうちのどのようなものが残るかを考えてみよう。それは君が生きていくのに十分だろうか。(戸田山氏の本より)